特集
2020.01.29
栽培期間はなんと6年!富士山麓の「高麗人蔘」|前川総合研究所
みなさんは、「ニンジン」と聞くとオレンジ色のキャロットを想像しませんか?
しかし明治以前の日本では、「ニンジン」というと高麗人参を指していました。薬草の一つとして古くから親しまれていたのです。和名は御種人蔘(オタネニンジン)。
その名の由来は、8代将軍徳川吉宗の命で、種を各地の大名に分け与え栽培を奨励したことによるとか。栽培の難しさから、今では長野県、福島県、島根県でのみ栽培されています。国産の高麗人蔘は希少な存在になってしまいました。そこに、数年前新たに栽培に挑戦しようとする企業が現れたのです。その企業は産業用冷凍機を展開する前川製作所です。
訪ねたのは、冬季になると白く輝く富士山を、大迫力で見ることができる朝霧エリア。
ここに、前川製作所が所有する広大な草原があります。この地で薬用植物栽培をするために、一人の男性社員に白羽の矢が立てられました。前川製作所のグループ企業、前川総合研究所で芝の生育の研究や植物工場での栽培方法などを長年研究していた、野田宗弘さん。
壮大なプロジェクトの実行者として、一人立ち向かうことになったのです。
↑長野県産と変わらぬ立派な人蔘が育っています
様々な案を検討した結果、大きな施設を必要としない農業に目を付けました。しかし既に栽培されている作物では、競合も多く、面白みがないと感じた野田さんは、付加価値が高く、高地の栽培に適している作物を探すことにしました。
そんな時、日本薬科大学教授、東京女子医科大学特任教授を務める、漢方薬の第一人者である医学博士の丁宗鐵氏から、「高麗人蔘の産地である長野県佐久市と、朝霧は標高が近いから、栽培が可能ではないか?」とアドバイスをもらいました。
高麗人蔘!その響きに、インスピレーションを感じ、国内にある資料を調べました。
つくば市にある国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所にまで栽培のヒントを求め、訪ねていきましたが、実際の細かな栽培方法を知ることはできませんでした。
長野県のJAに栽培農家を紹介して欲しいと依頼しても、栽培者の高齢化を理由に断られてしまいました。
↑朝霧特有の黒土の中で育つ、真っ白な人蔘
なんと高麗人蔘の栽培農家を知人に持つ社員がいたのです。その人の尽力で、佐久市の隣、東御市で3代農業を営む中村さんを紹介してもらうことに。中村さんは、高麗人蔘の他、薬用植物のセンブリや、米、ジャガイモなどを生産している大きな農家です。野田さんは、「ぜひ栽培法を学ばせてください」とお願いしました。
けれど、中村さんの答えは「ダメだね! 生半可な気持ちでは難しいね!」
「1本の人蔘を収穫するまでに、6年が掛かる。最低でも修行に6年は必要」…と。
やっと掴みかけた栽培法を学ぶチャンス。野田さんも、諦めるわけにはいきません。
なんとかお願いし、週の3日間を東御市で過ごし、農家さんと一緒に作業することで栽培を学び、残り2日は朝霧で同じ作業を復習する、これを3年続けることにしました。
「正直言えば、通い始めの頃はイヤになっちゃうこともありました。秋の収穫シーズンから参加することになったのですが、90㎝もある畝(うね)をまたぎ、中腰で丁寧に掘り起こします。残暑厳しい中ではかなりの重労働でした。けれど休憩時間に色々な話を聞かせてもらったり、他の農家さんとも交流したりと、多くのことを学ばせてもらいました。身体的には大変でしたが、楽しく充実した日々でした」と野田さんは振り返ります。
↑乾燥させ出荷します。またエキスや粉末に加工して販売することも可能です
高麗人蔘は日陰を好み、直射日光が当たると日焼けを起こしてしまいます。そのため、山から堅く丈夫なアカシアの木を伐りだし、日よけ小屋用の杭を作ります。
雪が降り、土が凍りだす前に、畝(うね)に沿うように打ち付けていきます。杭は生育期間の6年保つように頑丈に作るのです。その後、萱や藁ですだれを作り、日よけ小屋が完成。翌年5月に芽がでたら、葉がグングンと育つ8月までは病虫害対策を。納豆を利用してバチルス菌を培養。天然成分であるバチルス菌で病害の予防を行います。
農薬ではないため効果の持続性がなく、頻繁に散布しなければなりません。8月のお盆を過ぎるころ、葉が枯れだします。
ここで夏の病害対策が終わります。地上の葉は枯れ落ちますが、地下では根が次の季節の準備を進めているのです。
翌年また春になると、新たな茎が伸び元気な葉が茂ります。葉の枯れる晩夏まで、前年同様の病害対策を行います。2年目を迎えた株は、10月に掘り起こします。10㎝程度真っ直ぐに伸びた根だけを選び、畑に植え戻します。
この先4年、太く真っ直ぐな根に成長しそうなエースだけを、大切に育てていくのです。
掘り起こした株の4割程度しか選ばれず、残りの6割は、近隣のスーパーで販売されます。エースは、4年間栽培された後、「6年物の高麗人蔘」として、漢方や栄養ドリンクの原料として流通していきます。
↑丁寧に作り込まれたパネルからも、栽培の苦労が垣間見えます
しかし明治以前の日本では、「ニンジン」というと高麗人参を指していました。薬草の一つとして古くから親しまれていたのです。和名は御種人蔘(オタネニンジン)。
その名の由来は、8代将軍徳川吉宗の命で、種を各地の大名に分け与え栽培を奨励したことによるとか。栽培の難しさから、今では長野県、福島県、島根県でのみ栽培されています。国産の高麗人蔘は希少な存在になってしまいました。そこに、数年前新たに栽培に挑戦しようとする企業が現れたのです。その企業は産業用冷凍機を展開する前川製作所です。
訪ねたのは、冬季になると白く輝く富士山を、大迫力で見ることができる朝霧エリア。
ここに、前川製作所が所有する広大な草原があります。この地で薬用植物栽培をするために、一人の男性社員に白羽の矢が立てられました。前川製作所のグループ企業、前川総合研究所で芝の生育の研究や植物工場での栽培方法などを長年研究していた、野田宗弘さん。
壮大なプロジェクトの実行者として、一人立ち向かうことになったのです。
↑長野県産と変わらぬ立派な人蔘が育っています
数ある土地活用法の中から、どうして高麗人蔘が選ばれたのでしょうか?
前川製作所の社有地は国道138号の東側に位置します。道路を挟んで東側100mは、富士山が世界文化遺産に登録されて以降、開発条件が厳しくなりました。景観を乱す大きな建物の建築、木々の伐採などは許されません。そのため、「できること」が限られます。様々な案を検討した結果、大きな施設を必要としない農業に目を付けました。しかし既に栽培されている作物では、競合も多く、面白みがないと感じた野田さんは、付加価値が高く、高地の栽培に適している作物を探すことにしました。
そんな時、日本薬科大学教授、東京女子医科大学特任教授を務める、漢方薬の第一人者である医学博士の丁宗鐵氏から、「高麗人蔘の産地である長野県佐久市と、朝霧は標高が近いから、栽培が可能ではないか?」とアドバイスをもらいました。
高麗人蔘!その響きに、インスピレーションを感じ、国内にある資料を調べました。
つくば市にある国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所にまで栽培のヒントを求め、訪ねていきましたが、実際の細かな栽培方法を知ることはできませんでした。
長野県のJAに栽培農家を紹介して欲しいと依頼しても、栽培者の高齢化を理由に断られてしまいました。
↑朝霧特有の黒土の中で育つ、真っ白な人蔘
栽培法を学ぶため、農家へ武者修行の3年
一生懸命な野田さんの取り組みに、「拾う神」が現れました。なんと高麗人蔘の栽培農家を知人に持つ社員がいたのです。その人の尽力で、佐久市の隣、東御市で3代農業を営む中村さんを紹介してもらうことに。中村さんは、高麗人蔘の他、薬用植物のセンブリや、米、ジャガイモなどを生産している大きな農家です。野田さんは、「ぜひ栽培法を学ばせてください」とお願いしました。
けれど、中村さんの答えは「ダメだね! 生半可な気持ちでは難しいね!」
「1本の人蔘を収穫するまでに、6年が掛かる。最低でも修行に6年は必要」…と。
やっと掴みかけた栽培法を学ぶチャンス。野田さんも、諦めるわけにはいきません。
なんとかお願いし、週の3日間を東御市で過ごし、農家さんと一緒に作業することで栽培を学び、残り2日は朝霧で同じ作業を復習する、これを3年続けることにしました。
「正直言えば、通い始めの頃はイヤになっちゃうこともありました。秋の収穫シーズンから参加することになったのですが、90㎝もある畝(うね)をまたぎ、中腰で丁寧に掘り起こします。残暑厳しい中ではかなりの重労働でした。けれど休憩時間に色々な話を聞かせてもらったり、他の農家さんとも交流したりと、多くのことを学ばせてもらいました。身体的には大変でしたが、楽しく充実した日々でした」と野田さんは振り返ります。
↑乾燥させ出荷します。またエキスや粉末に加工して販売することも可能です
漢方や栄養ドリンクになるまでに、6年間かかっています!
野田さんが3年間の修行で習得した、高麗人蔘の栽培の様子を簡単にご紹介しましょう。まず、高麗人蔘の種は、市販されていません。自家農園で採取した種を、12月にまきます。高麗人蔘は日陰を好み、直射日光が当たると日焼けを起こしてしまいます。そのため、山から堅く丈夫なアカシアの木を伐りだし、日よけ小屋用の杭を作ります。
雪が降り、土が凍りだす前に、畝(うね)に沿うように打ち付けていきます。杭は生育期間の6年保つように頑丈に作るのです。その後、萱や藁ですだれを作り、日よけ小屋が完成。翌年5月に芽がでたら、葉がグングンと育つ8月までは病虫害対策を。納豆を利用してバチルス菌を培養。天然成分であるバチルス菌で病害の予防を行います。
農薬ではないため効果の持続性がなく、頻繁に散布しなければなりません。8月のお盆を過ぎるころ、葉が枯れだします。
ここで夏の病害対策が終わります。地上の葉は枯れ落ちますが、地下では根が次の季節の準備を進めているのです。
翌年また春になると、新たな茎が伸び元気な葉が茂ります。葉の枯れる晩夏まで、前年同様の病害対策を行います。2年目を迎えた株は、10月に掘り起こします。10㎝程度真っ直ぐに伸びた根だけを選び、畑に植え戻します。
この先4年、太く真っ直ぐな根に成長しそうなエースだけを、大切に育てていくのです。
掘り起こした株の4割程度しか選ばれず、残りの6割は、近隣のスーパーで販売されます。エースは、4年間栽培された後、「6年物の高麗人蔘」として、漢方や栄養ドリンクの原料として流通していきます。
↑丁寧に作り込まれたパネルからも、栽培の苦労が垣間見えます
来年の秋に迎える、朝霧産高麗人蔘の初収穫
修行の開始と並行し、荒地となっている社有地の整備、畑づくり、土づくりを始め、石や木々の根を丁寧に取り除き、ふかふかな土の畑が出来上がりました。
朝霧の土は、黒土、黒ぼくなどといわれ、粒子が非常に細かく、水はけが良いと同時に保湿力が高いという、高麗人蔘の栽培に適した土質だそうです。
来年の秋、初めての収穫を迎えます。
現在の野田さんは修行を終えて朝霧での農作業や研究が主な業務となりました。
野田さんはこれから、静岡産高麗人蔘の生産に注力していくと同時に、まだまだ明らかになっていない高麗人蔘の生理生態の解
明、成分の研究にも意欲的に取り組み、栽培の省力化、栽培農家の増加につなげていきたいということです。
<取材協力>
株式会社前川総合研究所
http://www.mayekawa-ri.co.jp/